ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団
■ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団
オーストリアのウイーンに本拠地を構える、世界で最も有名で最高水準を誇るオーケストラの一つであるウイーン・フィルハーモニー管弦楽団。選りすぐりの演奏家を集めた彼らの演奏技術は世界最高峰でまさに超一流のオーケストラと言われています。
メンバー構成はやや特殊でウイーン国立歌劇場のオーケストラであるウイーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーのうち、認められた優秀な団員のみが、このウイーン・フィルハーモニー管弦楽団での入団を許され、楽団は自主運営団体として運営されています。
ちなみに、ウイーン国立劇場管弦楽団のメンバーは約150人、そしてウイーンフィルハーモニー管弦楽団は約120人程で構成されています。 では、どのような経緯でウイーンフィル管弦楽団での演奏の椅子を勝ち取ることができるのでしょうか。
まずは当然ながらオーディションが行われ、オーディションに勝ち残った後は3年間の使用期間があり、その後にようやく正式にウイーンフィルハーモニー管弦楽団員として採用されます。
また採用されるのは主にウイーン国立音楽大学出身者のようです。 もう一つ採用に関して興味深い話があります。この楽団がこのように高い音楽水準を長く保ってきたのは演奏者の性別や民族を特定してきたからだと言われていることです。
1990年代まではオーストリア人、又は旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性に限られており、このような傾向が社会的に批判されていたことは確かでした。しかし1997年に初の女性演奏家を採用し、それを皮切りに女性団員の数が少しずつ増加してきています。
では、この一流オーケストラの歴史を見てみましょう。オーケストラの誕生は古くさかのぼり1842年の3月でした。当時のウイーン国立歌劇場の楽長、又作曲者であったオットー・ニコライが歌劇場付属の管弦楽団を指揮していたコンサートがきっかけだったようです。
1847年にニコライが去った後活動はしばらく停止していたものの、1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の監督に就任、1860年の1月に演奏会が再び公演されて以来今日まで楽団の活動は続いています。
1875年から1882年にかけて指揮をとったハンス・リヒターの就任していた時代は楽団の黄金時代とも呼ばれ、ブラームスの交響曲第2番や3番、又ブルックナーの交響曲第8番などが初演されました。
その後リスターの後任にはグスタフ・マーラーが首席指揮者となりましたが、その頑固で妥協を許さない性格から団員と何度か衝突し、団員の大幅な入れ替えがありました。
第二次世界大戦後にもまた、ナチス党員の半数以上が退団となり主に演奏会を行っていた国立歌劇場は空襲で焼けてしまい、それまで指揮をとっていた優秀な指揮者達はナチス協力の疑惑により活動を停止せざる終えなくなった為ウイーン・フィルの活動は非常に困難な状況に陥っていました。
1940年代の終わり頃になりようやく以前のようなウイーン・フィルの輝きと誇りが見え始めその後、その栄光は今でも変わりなく続いています。 では歴史上の客演指揮者で有名どころを見てみましょう。
まず一人目はウイーン・フィルの名誉指揮者となっているヘルベルト・フォン・カラヤン。彼は1947年にベートーヴェンの第9番を録音したのを初めに多くの素晴らしい録音を残しました。カラヤンは1960年代まで頻繁に楽団で指揮をとっていたもののウイーン国立歌劇場辞任をきっかけに楽団からは疎遠になってしまっています。
もう一つの偉大な客員指揮者はレナード・バーンスタインです。彼は1966年に始めて彼らの定期演奏会で指揮を振り、1970年代にはウイーン・フィルが嫌っていたとされているマーラーのを多く取り入れ、楽団に新しい風を吹き込みました。
ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団は1997年に女性演奏家を始めて採用し、またそれまで長い間受け取っていたオーストリア政府からの補助金を今後受け取らないことを決定しました。